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最高裁判所第三小法廷 昭和51年(行ツ)116号 判決

静岡県浜名郡舞阪三九九一番地

上告人

小幡萬夫

右訴訟代理人弁護士

山本稜威雄

静岡県浜松市元城町三七番地一

浜松税務署長

被上告人

井原光雄

右指定代理人

青木正存

右当事者間の東京高等裁判所昭和五〇年(行コ)第七一号重加算税賦課決定取消等請求事件について、同裁判所が昭和五一年九月一三日言い渡し判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の申立があつた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人山本稜威雄の上告理由について

所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、右違法はなく、右違法があることを前提とする所論違憲の主張は、失当である。

論旨は、独自の見解に基づくものであつて、採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 服部高顯 裁判官 天野武一 裁判官 江里口清雄 裁判官 高辻正己 裁判官 環昌一)

(昭和五一年(行ツ)第一一六号 上告人 小幡萬夫)

上告代理人山本稜威雄の上告理由

第一、差金決済の商品先物取引精算益は課税所得ではない。

控訴審判決は商品先物取引の実相を正解していない判断であつて、特に、商品取引所法二条4による商品先物取引は売買何れかの建玉を行ない、その建玉を将来の一定の時期までに結了し、その結了方法は建玉を行なつた取引所で、現物商品を受渡しして決済するか、又は、転売若くは買戻し即ち既建玉とは反対となる売買を行なって差金決済をするか(以下差金決済の売買と言う)の両者である。そして、上告人である原告の行なつたのは後者の場合に終始したのである。而して後者はただ上下する商品価格現象で価格の時間的変動差額を利益として追求し、何ら現物商品の授受なき売買行為であるから、その性格は投機取引である。投機の損益は基本的に偶然に左右され、絶対の予測は不可能であり、営利は目的であつて報償は必ずしも当てには出来ず、或る時(年)は儲けても或る時は損となり、しかも不規則的である。

然るに控訴審は右の両者を混同して、原告の行なつたような差金決済の所謂空売買を、現(実)物商品の授受決済の売買並にみて、その現象観より一般商品売買と性格を同様視した前提で判示した(判決書28枚目表9及び10行)が立論の根底は以下述べる理由により法解釈を誤つたものである。

一、所得税法の「所得」に該当せず

商品先物取引による精算差益は法一条の所定の課税「所得」に該当しない。

判決書23枚目表4行以下同裏5行までに於て、結局、法は、‥‥右清算差益が法にいう「課税所得」に該当すること明らかである。と判示しているが、

1 長年商品先物取引をしている場合、その間、損失の年を考慮せず(原告の昭和四三年が二、六八〇、八八〇円の損失であつた場合の如し)利益ありたる年にのみ「所得」として課税するときは、結局、元本課税となり、所得税法は収得利益即ち所得を対象とし、その所得のうちより課税するという所得税の根本理念に反する。

商品先物取引は、その仕事の性質上、損益の浮沈が余りにも甚しい為め、利益として収得されたかどうかは、相場を完全にやめた場合、即ち商品相場から足を洗つたときに始めて判明するものである。

凡そ、損益発生が基本的に偶然に左右され、その発生した事情原因の理由の如何を問わず無条件の責任である投機は、損益発生の機会としては、結局する処、五分・五分であつて、即ち利益の確率は50%である。投機の種類でも投機取引は、誰も明日の相場の高安は推定以外には断言出来ず即ち予測の絶対は不可能であり、そして、価格の変動幅が無条件に損益額の計算となるが故に、変動一杯に大きく儲けても、損の場合では変動幅一杯が元本(売買の証拠金)以上を超えた額の計算となり得て、投機資金の元本額以上の欠損も止むを得ない。斯くて、長期間の反覆は目算の間違いを含めて必ず不運による失敗があり、投下資金を失ない、更らに、次の投機資金に当てる元本すら欠亡となり、依つて、爾後の継続的行為が不可能に陥つて、投機の確率が結局の五分・五分であつても、之れを再び行なうの機会を得ずして回復なり得ないから、いやでも欠損に終り、確率の50%は求められない。加之、投機取引の商品先物取引では相場の上下変動に、その的中者の獲る利益金は、不的中者の損失金によつて賄なわれ、この取引に参加した顧客間を投機資金が交流するのみであり、しかも、的中、不的中者双方は、取引税込みの売買委託手数料が徴収される為め、全顧客の総収入は総支出を下廻り、その総投下資金が減額されて、顧客としては必ず損失の勘定となる。

仍ち、之れを要約すれば、投機取引である商品先物取引に於ては、顧客の売買の客観的な帰趨は必ず損失を被るものであり、偶然の例外を除いては成功出来ず、そしてその偶然の場合も亦、次の偶然で帳消しを受け、斯くて長年相場を行なつて居ては、一人の例外もなく損失に終つており、而して、この経緯は公知の事実である。この点は甲第一号証にも「委託者の投機取引は、一時は成功しても結局は失敗に帰するものである」と記載されている(66頁16~17行)ことによつても明らかである。

従つて長年この取引を行なつている顧客には、その間の利益と計算された年にのみ「所得」として課税あるときは、結局は元本に課税した結果を来たし、所得税法が各人の増加利益即ち「所得」に課税するという課税目的に悖ることとなる。

2 商品先物取引でも原告の行なつたような差金決済の売買は投機取引であるから、基本的には損益が偶然性に支配される為、個々の顧客の個性、とくにこの取引における過去の経験、実績から得た特殊技能で功妙に駈引きする所謂伎倆なるものは偶然性の傘下では否定され無為である。たとい之れで連勝していても偶然では一簣の損となり、連敗していても偶然では意外な回復復をみる。原告と雖も例外ではなく、今は儲けが残つているとしても、所詮、損失に帰してこの取引より離脱せざるを得なくなるは必定である。

判決書23枚目裏11行以下24枚目7行までに、「成立に争いのない甲第一号証にも‥‥妥当でない」旨説示しているが

(A) 相場は個々の顧客の個性で望み通りに変動してくれるものではない。相場では将来の価格に十分な見込を立てて、建玉しても、その成否は未来一途に懸るが故に、反対売買による建玉の結了までに、建玉当時には予測の不可能な天災・事変・内外の政治経済の変革等によつて生じた相場の変動から、失敗となる場合もあれば、亦見込みを誤つて相場が自己の不利に進展中の処、此等天災等の惹起が幸いして成功の結果を思はず拾う場合もあり。之れ投機が本質的に、偶然性に支配され、しかも価格の変動原因に対しては、その事情の如何を問わず無条件であるの所以であつて、説示の「個々の顧客の個性、とくに商品先物取引におけるその実力や経験」は一時的に相場の損益に影響することがあつても、長い目でみるときは、最早何ら及ぼす効用なし。相場上の技倆は科学的知識・技術の水準に未だ達し得ず。蓋し、未来は絶えず変化し、相場は新事態を反応した需要と供給で上下する。若し、それ恒に之に影響されて、個々の顧客の性の余地ありとすれば、世上無数の大小相場師や、相場観測の専門家、権威は何れも相場の成功者として巨万の財をなしている筈であるのに、現実は最後までこの売買から財を累積し得た成功者は一人も無い実状である。

仍ち、「個々の顧客の個性」を云為するのは、一時的事実を把握して立論したに過ぎずして、法律的考察に非ず。亦、抑々相場の実相を甚しく理解していない証左であり、且つ、商品取引所法の解釈を誤つているものである。

(B) 前記の通り、終局必敗は原告も亦一般の例に洩れず、商品相場を反覆して居れば否応なく、之れより離脱を余儀なくされる。

しかも、原告がなほ現在もこの相場取引を行なつている所以は、いずれは損失に帰する結果が理の当然と知りつゝも、唯々独り僥倖のみを神頼みして、明日への魅力に憑かれるからであるが、即ち勝負本能からである。

判決書24枚目裏2行以下25枚目5行の追加判示終りまでに於て、相当長期間にわたる観察をした場合においても、顧客によつては、その得た清算益金の合計がその受けた損失額の合計を上廻ることがあることは、原告主張にかゝる原告自身の過去二〇年以上にわたる損益の実績からみても明らかであるから、と云々し、前示のとおりである。と説示している。

然し乍ら、原告が第一審の訴状の19枚目表4行以下20枚目表1行までの分に記述している昭和二六年から四九年に至る相場暦は相場が始何に浮沈が激しく、継続的に行い得る「営利性・有償性」を欠く証左としての説明である。それを判決書は右の如く、「相当長期間にわたる観察をした場合においても、云々」と説示しているが、原告は昭和四八年で相場をやめて相場から足を洗つたのではなく、昭和四九年はこの係争事件の為め、相場をほんの一時休んだのである。従つて、相場という仕事の性質上、差引きした損益、即ち利益の計算ならば収得利益額は、未だ判明する時期には至つていないのである。

而して、仮りに原告が昭和四八年で相場より永久に離脱したと看做して、昭和二六年から四八年までの損益を通算すれば

損失額合計 四三、八二七、九四七円

利益額合計 七五、七三三、八二〇円

その差 三一、九〇五、八七三円

の収得利益に対し、課税することになる処を、

利益即ち精算益のありたる年のみに課税するとなると(昭和二六年の利益計算は約五万円で僅少であるから、之れを省く)

昭和四〇年の利益額 約五、〇〇〇、〇〇〇円

昭和四一年の利益額 二七、一六一、五八〇円

昭和四二年の利益額 四三、五二二、二四〇円

の各々を「所得」として課税する結果は、前者の場合とは甚しき相違があり、税法の応益負担の原則に反し、更らには、所得税法特有の応能負担の原則(超過累進課税率)にも反して、不合理は茲に胚胎するのである。而してこの不合理は僅か三年で打切りとなる青色申告の考慮(法七〇条)では解決出来ない。

右は飽くまでも仮定論である。

原告が相場を、僥倖を当てにして再び始めた昭和五〇年は、見事に一、二〇〇、三〇〇円の損失(浜松税務署長へ申告済)になり、所詮は原告もいずれはこの取引で失敗に帰すること必定である。

(C) 判決書23枚目表4行以下8行までに、結局、法は、各人に発生帰属した経済的利益のすべてを「所得」として把握し、法およびその他の法令において明らかに非課税とする趣旨の規定がない限り、その発生原因または法律関係のいかんを問わずこれを「課税所得」としているものと解すべきである。と説示し、又判決書25枚目表3行以下5行の追加判示の終りまでに於て、このような清算差益を一暦年ごとに区分して課税所得として捕捉することにも何ら不合理な点はない。控訴人が当審において提出した準備書面に詳述するところも、結局商品先物取引は、その一暦年の精算差益は一過性のものであり、終局において通算すれば必ず損失に終る性質のものであり、税法上の所得と認めるのは失当である、とする従前の主張の繰返しであり、右の主張が現行法上認め難いことは前示のとおりである。と説示してあるが

所得税法は、各個人の収得の利益を対象とし、そのうちより納税せしむることを建前としているに不拘、且つそれが一暦年で収得事実の完成した利益を前提としているに不拘、何故に一暦年では各個人にとつて未だ収得の実なきこの精算益を「課税所得」として捕捉して不合理なしとするか理由を欠き、しかも説示は根本的に所得税法の「所得」解釈を誤つている。

即ち、説示は上記の通り「結局、法は、各人に発生帰属した経済的利益のすべてを「所得」として把握し」となし、判決書23枚目表9行以下同裏5行までで清算差益金が当該顧客に発生帰属した経済的利益であることには相違なきの理由から、法にいう課税「所得」に該当するとなし、原告のような場合に肯定したのであるが、抑々経済的利益のすべてが各個人に帰属の外観現象があつたとき、それは所得税法の理念即ち、所得税の課税目的に照らして「所得」であるか否かが決定さるべく、然らば「所得」解釈としては表現が

「各人に帰属する経済的利益のすべて」

でなければならない。

従つて、発生した経済的利益のすべてが各人に帰属「した」と外観されても、帰属「する」ものでなければ「所得」ではなく、亦たとい現象的に各人の未だ保有に至らずとも、未収分としての権利であり、各人に帰属「する」性質のものならば「所得」である。換言すれば物理的に各人に帰属「した」現象であつても「所得」であるか否かの判断を待つ前提段階である素現象であつて、帰属「する」ものに於て「所得」に該当する。

所得税法に定義を欠くも「所得」の意義は所得税の課税目的に妥当すべく、物理的現象の把握よりして解釈されるべきではなく、説示の表現は「する」「した」の単なる用語上の瑕疵に止まらず、基く処は帰属現象の把握を所得税法の理念の無視に於てなされた錯誤のものである。仍ち一過性の利益は「所得」にナジまず亦該当せず。原告の行なつたような差金決済の売買に終始した商品先物取引の精算益は暦年単位では一過性の利益である。畢竟「所得」にあらず。

二、事業所得に該当せず

原告の商品先物取引による精算差益は法二七条1項所定の「事業所得」に該当しない。

1 先ず「事業所得」に付、説明の便宜上、「事業」と「所得」に分けて考察するに、原告の行なつたような商品先物取引による精算(差)益金が「所得」に該当しないことは「一」に於て述べた通りであるから、此処には原告の行なつたような商品先物取引が「事業」に該当するか否かを検討することにせん。

2 判決書25枚目裏11行以下26枚目表4行までに、一般顧客の差金決済による利益を目的とする商品先物取引が右の「対価を得て継続的に行なう事業」に該当するか否かは当該取引の回数・数量・金額・過去の実績・人的・物的施設その他の諸状況により社会通念に照らして客観的に決すべきものと考えられる。と説示して原告の本件各係年における商品取引の実態について縷々説明した上、以上の事実を総合すれば本件各係争年における原告の商品先物取引は自己の危険と計算において、独立的に継続して営まれた生糸等の商品先物取引であり、かつ大量に反覆継続した営利行為と認められ、社会通念上「対価を得て継続的に行なう事業」というに妨げないものというべきである。としている。

そして更らに、その28枚目裏3行以下29枚目表9行までに於て、原告の商品先物取引に付縷々説示して、「営利性・有償性」を否定することができない、としている。即ち原告の商品先物取引は客観的に「営利性・有償性」有りとしているのである。

然し乍ら、原告が商品先物取引によって利益を得たのは、回数・数量・金額・過去の実績等の諸状況によるのではなく、投機取引が運良く的中したからであつて、売買行為に客観的に「営利性・有償性」が有つた為めではない。この点に付ては「一」の1、及び2(A)に詳述した通りであるが、要は投機取引は損益が基本的に偶然性に支配され「営利性・有償性」の範囲外であつて、原告の行なつたような商品先物取引は「事業」たるの必須要件である「営利性・有償性」を欠き、「事業」ではなく、従つて、亦その精算益は法二七条Ⅰ項所定の「事業所得」に該当せず。

3 なほ、右の説示の理由に対し、次の通りで、各々が法解釈を誤つたものである。即ち説示の順序から説明すれば(A)判決書28枚目表4行以下同裏3行上段までに、一般顧客のなす商品先物取引は、本来商品の流通過程において業態を同じくする卸商間の仲間取引として始まり、本質的には、商品の売買であり、大衆の射倖心に訴える一か八かの勝負を争わしめる競馬・競輪等ギヤンブルの場合と同一視することは妥当でない。と説示めるも、

(イ) 現在の仲間取引は清算取引ではなく、(新旧、商品取引所法八条)実物商品とその対価との現実的授受目的の交易であり、その売買契約締結の方法は技術的に他により安く買つて他より高く売ることの出来る相対売買か、又は巧妙に駈引きが出来るセリ、入札売買の自由仕法であり、加之、期限の法定制約なく、且つ、海外をも含めて他市場を利用し得て、移輸出入等商品の流・転用が可能である。之れに対して、商品先物取引は売買の方法及び期限が定型化され((旧商品取引所法七八条一項一号、新法七八条一号により、期限は通常六ケ月、売買方法は大量取引でも現物の受渡し決済の売買を併用せざる限りは、買占め売崩しが容易に出来ない単一約定値段による競争売買仕法――代表例・神戸生糸取引所業務規程六条、現行規程の一〇条、――であり、此の点有価証券市場では、実質上は有利に駈引の出来る相対売買である複数約定値段による競売買仕法―代表例・東京証券取引所業務規程11、及び12条――であるのとも異る))その売買は好む値段の出現するまで処分の(建玉結了の)の延期は許されず。為めに、相場上、目先き一時の劣勢でも期限の到来から損を免れることが出来ず。又売買契約締結の方法の特殊性より他より有利に駈引きし得ないから、個々の顧客の技術的能力発揮の余地も無い。且つ売買した建玉は他市場でその建玉の処理は不可能な為め(新旧商品取引所法八一条)他市場を利用さえ出来れば損失計算を免れるの便利は求められない。更らには、商品先物取引は現物本位の取引にあらずして、値段本位の市場取引である点が仲間取引と性格を決定的に異にする。而して、値段本位の取引とは投機取引の別名である。

仍ち、本質が商品の売買であるからと云つて、性格と売買態様を異にする両者に、その「営利性・有償性」の有無に付てまで、大同小異的な説示の同様視は、今日商品取引所法として、特に法制化された売買組織に対して、余りにも無理解に過ぎる判示であり、就中現物商品の受渡し決済売買と、原告が終始したような差金決済の売買とを区別せずして一律的に商品先物取引を把握し、之れに「営利性・有償性」を肯定したのは杜撰な且つ社会通念にも反する解釈である。

(ロ) 競馬・競輪等は勝馬(車)投票券購入代金を損失額の限度とするから、各人に儲けの若干は或は残し得る可能性を覗い得、又此の利益の該当する一時所得には、課税標準の計算に特別な考慮が施されてあること(法二二条2の二、及び法三四条2・3)から、その常連の場合にも、之れが該当は止むなしとされる。之れに対して商品先物取引は、価格の変動差額には無条件に損益が計算され、そして、長期的にみて何人も不運の場合を回避出来ず、その失敗は儲けの残留性を欠き、此等ギャンプルの場合とは責任を異にしている。

然れども、商品先物取引は経済的思索行為であり、又ギャンプル等とは制度の目的及び外形行為は、成る程説示のいう同一視は出来ず、且つ、責任範囲を異にすると雖も、商品先物取引のうち差金決済の売買は大衆の射倖心に訴えた投機なる勝負行為である点は共通し、性格は一か八かの偶然性傘下のものである。

ギヤンプル等の所得は「営利を目的とする継続的行為」ではなく、一時のものとして課税され「営利性・有償性」の無きものとして公認を承けている。同じく偶発性傘下のものである差金決済の目的で以て行なわれた原告の商品先物取引には、売買行為に「営利性・有償性」の有る理由はない。利益の由来する法律上の原因は同じであるが故に。

(B) 判決書28枚目裏3行以下追加判示に於て、商品先物取引の個々の委託者は長期的にみても、必ず損失を被るものであるとは認められないことは前記のとおりであり、その取引の数量が商品相場を支配するに足る程度のものでないとしても、右取引行為の「営利性・有償性」は否定できない。と説示があるが

(イ) 商品先物取引でも原告が行なつたような差金決済の売買は投機取引であり、そして投機取引なるが故に商品取引所法には「呑行為」禁止規定が存在し(旧法九四条、新法九三条)顧客の投機取引は結局は失敗に終ることを公認されている。そして此の規定は無差別に仲買人に適用される。従つて、個々の委託者の個性の余地は残されず。個々の委託者は一時は儲けても長期的にみて必ず損失を被る。説示の判断は右の規定の存在と抵触したものである。

(ロ) 「長期的にみても必ず損失を被るもの」を以て「営利性・有償性」の有無の判断基準としたが、是れによれば、その有りとするのは、「長期的にみても必ず損失を被るもの」以外の場合であり、その以外の場合には、儲かるのが当然、損は例外となるもの、と、損は必定、儲かるのは偶然であつたもの、とが現象観として混在する。

又、説示は「その取引の数量が商品相場を支配するに足る程度のものではないとしても「営利性・有償性性」は否定できない」としているも、凡そ価格現象は市場に集中する需要と供給の数量の相互作用関係から価格が形成され、買い占め、売り崩しに限り、自然の需給関係を無視して作為価格が決定され、この理は社会通念でもある。即ち、相場では価格に作為して之れを制御し、以て価格差額を求むる手段の他には、自然には儲け得ない。自然価格の自然に趣くまゝの価格との差額に損益が計算され、儲けは自然が作用するから僥倖でなければ儲けは得られない。従つて利益の確率の有るものは買い占め、売り崩しであるが、商品相場を支配する程度の取引数量に達せずしては、それが不可能であるから、右の説示は社会通念に反する。然るを、敢えて立論し「営利性・有償性」の有る理由に妨げずとした説示は損益が偶然性帰因の儲けの場合をも、その「営利性・有償性」のある場合に包含した解釈に基くからである。

斯くては、右偶然の場合でも「営利を目的とする継続的行為」は成立し得る結果となり、ギヤンプル等の場合が該当されている一時所得が事業所得に吸収されて、法に謂う一時所得の無視である。

抑々、「営利性・有償性」の有無に付ては左の解釈であるべし。即ち

「事業」が対価を得て継続的に行なうものである以上、対価が得られる、且つ、継続的行為の可能であるの両条件を充たす性質が行為にあらねば「事業」とはならない。従つて、之れを充たす行為の営利性は、社会通念に照らして、誰れが行なつても儲かるのが当然であり、損が例外となるべきものである。行為の営利性が薄弱な為め、損が必定となり、たゞ偶然によつてのみ儲かるものは之れに相当しない。法二七条に基く施行令六三条一二の「事業」たるには、凡そ売買の場合に於ては、「営利を目的とした継続的行為」の存在を前提とし、社会通念を以て決定される。而して、右の「営利を目的とした継続的行為」の存否に付、之れを規定した施行令二六条Ⅰ項は、有価証券売買の場合を対象としているが、有価証券を「モノ」として把握したものであるから、同条は商品取引の場合にも類推適用され、其処で同条をみれば、有価証券譲渡所得は政策的理由から非課税原則のところ、それが継続売買のときは一転して課税所得に変更され(法九条十一イ)その趣旨は、有価証券売買で、各人が多々益々弁んじている際は、政策的考慮としては最早、課税所得としても差支えなしとしたものである。

従つて、継続売買としての同条所定の、「営利を目的とした継続的行為」の存在の為めには、同条所定の「その売買についての取引の種類」の持つ営利性が、売買の回数・数量又は金額その資金の調達方法、施設その他の状況と相俟つて、売買当事者の此等主観的諸状況が積極的ならば、必ず多々益々弁んじ得られる報償度のものでなければならない。斯る営利性を「営利性・有償性」と一般に称せられて通念される。そして、之れが有るものは上記の社会通念より儲かるのが当然、損は例外即ち確率51%以上の営利性のものが相当し、右の積極的な売買諸状況を以てしても必しも弁んぜられず、積極的なるが故に逆に大損となるが如きものである場合の営利性では、その売買行為には「営利性・有償性」は之れ無しと解される。而して、之れが有無は、亦、「営利を目的とする継続的行為」が成立する為めに要請される意味を持つ。即ち之れが成立し得るものに「営利を目的とした継続的行為」が存在し得るから。又偶然性、一時性が主として予定される一時所得では「営利を目的とする継続的行為」ではないことが条件となつている(法三四条)

仍ち、「営利性・有償性」の有無は「営利を目的とする継続的行為」解釈上の要請であり、その範囲は損となるときもある偶然性に帰因し、僥倖にして儲けとなる薄弱な営利性は除外されていなければならない。ところで、投機取引は予測の絶対は禁句であり、何人も偶然に左右され、幸い思惑が的中すれば利益であるが、不運の不的中は必ず損失となり、その場合に売買の回数・数量・金額等の諸状況が積極的なものであれば、多々益々弁んぜられるどころか、それが却つて仇となつて多額の損失を被る。而して、商品先物取引で原告の行なつたような差金決済の売買は投機取引であること縷述の通りである。即ち、社会通念の又税法要請の意味の「営利性・有償性」を欠く。

尚、昭和四七年一一月九日最高裁・判決(四三年(行ツ)第四九号)及び之れに先き達つ、昭和三八年一〇月三一日最高裁判決(刑事々件)の畑仲石一の件において見るが如く、「営利性・有償性」が認められ、対価を得て継続的に行なう「事業」に該当した例がある。此の例は商品仲買人の特権を、即ち顧客預託の売買委託証拠金の余剰預り分の勝手使用、或は、所謂「バイ・カイ」付出し行為等の営業上の特典を、仲買人株式会社畑仲石一商店の代表取締役である畑仲石一が、その実力者であるの地位から、自己計算に振替えて濫用し得る背景に在つての商品先物取引であり、彼の売買に於ては原告のような場合の取引即ち投機取引であつても、その偶然性支配を脱し得て、儲け得べくして儲け得られるものであり、売買の積極的な諸状況を以てせば、愈々好成績を収め得るから、彼の場合は「営利性・有償性」の有る売買行為である。然れども、原告は委託者であつて、斯る地位に在らず。仍ち、その判例は本件に適切ならず。

(C) 判決書29枚目表1行以下9行までに、商品先物取引が各個の取引において利益の発生が不確実で偶然的であるからといつて直ちに本件のように、原告自身が相場変動に関する罫線を作成し、その他の相場資料を収集し、自己の相場経験を生かして予測を立てたうえ、反覆継続して、総出来高に対して、比率的に僅少でも所謂大量に行なつた取引についてまで、その「営利性・有償性」を否定することはできず。と説示あるが

個々の顧客の個性は、差金決済の売買に於ては無為のものであること既述の通りの理由であり、右説示の基本的見解は差金決済の商品先物取引が投機取引であることを否定し、即ち投機取引を前提としている旧商品取引所法九四条(新法の九三条)の存在を無視したものである。とともに、「営利性・有償性」の有無は社会通念によつて客観的に認定さるべく、所謂課税権者の優位性で決定さるべきものではない。と解すべきである。

第二、結論

これを要するに、差金決済の商品先物取引精算益は課税所得ではなく、控訴審判決は憲法の租税法律主義に関連する法解釈を誤つているから、他の点についての判断を待つまでもなく、速かに破棄さるべきものなりと信じます。

以上

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